2016/12/06
直虎が元許嫁の子供 直政を家康に託し井伊家の復興を果たした話は有名ですが、では直虎はなぜ武田ではなく家康を選ぶことに決めたのでしょうか?なにか根拠となることがあったのでしょうか、今日は当時井伊家の置かれていた状況からその理由を推測していきたいと思います。
まずは当時の時代背景から見ていきましょう。
上の地図は井伊氏がまだ今川に支配されていた時の井伊谷(★の所)です。その際は武田・北条・今川の3者間には甲相駿三国同盟が結ばれお互いに戦うことはありませんでした。しかし1560年桶狭間で「海道一の弓取り」と恐れられていた今川義元が死んでしまうと
武田信玄は同盟を破り今川領地の駿河と遠江を松平(家康)と示し合わせ両側から挟み撃ちします。その際に
武田軍は
今川館を燃やし城下町として栄えていた駿府の街にも火を放ちます、またのちの三方原の戦いでは井伊谷城下も戦火にあい、この一連の戦いで武田軍によって多くの仏閣や神社が焼失します。
一方松平軍は
井伊谷三人衆(鈴木重時・菅沼忠久・近藤康用)の案内で三河から遠江に入り井伊谷城側に戦力が残っていなかったこともありほとんど抵抗されることなくこの地を平定しています。
当時地頭職から解任された直虎は井伊谷のどこかでこの光景を見ていたことでしょう、両者のこのような侵略の違いも直虎の決断に影響を与えた可能性が考えられます、その後信玄は病死し遠江における家康の支配はますます強まることになります。
また決断には直虎の元恋人直親(虎松の父親)の死因も強く関係していると思われます。↓以下の記事でも書いたのですが
直親は松平(徳川)との密通の疑いを掛けられ今川によって殺されています。このような背景からも徳川に付くことが直親の意志だったと直虎が考えるのも想像に難くありません。実際に家康が鷹狩に行く道中、直政(虎松)と出会った折にも直政は父の死の由来を家康に訴え家臣に取り立ててもうらうように頼んだといわれています。
直政を家康に仕官させるという話は直虎一人だけの決断ではなく、実際の所は南渓和尚や松岳院(直虎の母)、直政の実母などと一緒になって話し合って決めたといわれています。滅亡の危機に瀕しながらも井伊家一族同士で知恵を絞りあい、当時の家康の勢いや徳川との縁などを複合的に判断した結果、家康を選んだという事が真相のようです。
参考書籍
遠江井伊氏物語(武藤 全裕)
日本を変えたしずおかの合戦(財団法人静岡県文化財団)
戦国大名勢力変遷地図(外川 淳)
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